
ジャカルタに来て、驚いたことがある。
それはジャカルタの誕生日は「祝われる日」ではなく、「周りに配る日」であるってこと。
日本では、誕生日の主役はプレゼントをもらい、ケーキを食べ、気持ちよくチヤホヤされるものだと思っていた。 しかし、こちらでは完全に逆だ。 誕生日の本人が、クラスメイト全員にプレゼントを配って歩くのである。
まあ、ジャカルタに限らず海外あるあるなのかもしれない。 だが、その「配るもの」のスケールと執念が、私の理解を少し超えていた。
家が給水所になる日
子どもたちがクラスメイトから「逆プレゼント」をもらって帰ってくるたび、私は震える。 「これ、全員分準備するの、親はだいぶしんどくないか」と。
粘土、お絵かきセット、文房具。 そして、お菓子。 お菓子ならいい。食べてしまえば消えるから。 (実際には、絶妙に口に合わない海外特有の甘すぎるお菓子が棚を一つ占拠しているので、全く消えてはいないのだが)
問題は、消えないモノたちである。 まず、水筒。 なぜか異常にもらう。 タンブラー型、ストロー付き、キャラクターもの。 ただ、どれも絶妙に「惜しい」。 魔法瓶じゃない。肩紐がない。耐久性が怪しい。そして無駄にデカい。
だが、一応使えるから捨てにくい。捨てたら確実に子どもたちに怒られる。 結果、気づけば我が家は給水所くらい水筒が並んでいる。
次に、弁当箱。 これもまたデカい。 幕の内弁当でも詰める気か、という大人サイズだ。 うちの子たちはそんなに食べない。私だって無理だ。一度も使っていない。 なのに、また増える。需要と供給が完全にバグっている。
ボストンバッグ、そして「テーブル」
さらにエスカレートしていく。 ある日、立派なボストンバッグをもらってきた。 ご丁寧に、誕生日の主役の子の名前が刻まれている。 そしてなぜか、うちの息子の名前のイニシャルがロゴになり、息子の名前までガッツリ刺繍されていた。 使えなくもないが、、、今のところはちょっと間に合っている。
そして極めつけ。 息子が「テーブル」をもらってきた。
……テーブル? 折りたたみの木製テーブルである。 そこには「〇〇くん 8歳の誕生日」と堂々と刻まれていた。
私にとっては、見るたびに「いや、あんた誰やねん」としかならない。 なのに、毎日リビングで視界に入る。 しかも、これまたご丁寧にうちの息子の名前まで個別に刻印されているのだ。
クラス全員分、それぞれ名前入りの木製テーブルを特注して配る。 規模がおかしい。親の気合いと財力が恐ろしい。
圧倒的敗北感を味わう誕生日パーティー
配るだけではない。パーティー自体もおかしい。 先日、娘が誕生日パーティーに招待された。 会場は、キッザニア(一部貸切)である。 他にも「Lollipops Playland & Cafe」などのプレイグラウンドを貸し切るパターンもあるらしい。スケールがバグっている。
さすがに手ぶらはマズイと思い、私もプレゼントを用意した。 普通のやつだ。 日本の常識に照らし合わせた、「まあ、こんなもんだろう」という真っ当なやつである。
結果、完全に上回られた。 渡したプレゼント以上のものが、豪華なセット(ぬいぐるみやお菓子など)となって返ってきたのだ。 「うち、これでよかったのか?」 不本意にも、謎の敗北感と恥ずかしさを味わうことになった。
娘は大喜びだった。 兄の誕生日にもらったばかりの「卵から生まれるぬいぐるみ」と同じシリーズが増え、我が家はまたしてもぬいぐるみで溢れかえっている。
結論:来年のことは考えたくない
で、自分たちはどうするのか。 今回、うちは「何もしない」という選択をした。 子どもたちが「注目されたくない」と言ったからだ。 (とても分かる。私も完全にそっち側の人間だ)。
かつ、幸いなことに2人とも誕生日が休日と被っていた。 だからセーフ。見事に逃げ切った。
ただ、来年も逃げ切れる保証はない。 その時、一体何を配ればいいのか。 結婚式の引き出物のように、専用の業者がいるのだろう。 こういう準備を楽しめる親はいいが、私はたぶん楽しめない。ただただ面倒くさい。
ジャカルタの誕生日は、もらう日ではなく、配る日である。 そしてその結果、家にモノが異常に増える。
こちらサイドは、どうか、お菓子の詰め合わせだけで許してほしい。 何もしない可能性すら高いとも言っておく。